Geteilte Freude ist doppelte Freude.

 月のものが数度にわたって遅れ、もしかしてと思いながら受診すると案の定、この身に彼の子を宿していた。遠い極東の国からこの地に、そしてバイルシュミット家に嫁いでから二回目の秋を迎えてのことだった。
 年老いた医師から頂いた「おめでとう」という賛辞の言葉も、私にとっては遠い世界での出来事のように思えてならなかった。未だぺしゃんこのこの腹の中に、新しい命が宿っているというのも現実味がなく、夢か幻のようだ。なかば茫然として家に帰りついた私を待っていたのは、夫になんと言って打ち明けたらいいのか、という大いなる不安だった。
 普通の夫婦であれば、妻の懐妊はめでたいことだ。実際、私とルートヴィッヒ様は政略結婚の末に結ばれたものであり、血筋を残すために跡取りが生まれるのは喜ばしいことである。けれども、と私は思う。──彼は喜んでくださるだろうか。
 嫁いで来てから二年の月日が流れたが、未だに私には彼の考えていることが分からないでいる。感情の起伏が読めない無表情な顔と、冷たい青い瞳。鍛え抜かれた肉体と端整な顔を見ると、私は気おくれしてしまって逃げてしまいたくなった。自分から相互理解を拒んでいるようなもので、これではいけないと思ったけれど、厳しい顔つきの彼と顔を合わせると、どうしても踏み込めずにいた。
 私の母も、祖母も、同じように見合い結婚をし、婚礼の日に初めて顔合わせをした人に嫁いだという。けれども、両親も、そして祖父母も夫婦仲は大変に良く、結婚の二文字に怯える私に『最初はどんなによそよそしくても、子が出来れば家族になれる。まして愛しい子の父親と思えば、いくらでも愛おしいと思えるものよ』と諭してくださった。
 私もそれを信じて嫁いできたのだけれど、実際に身ごもってみれば、途方もない不安しか抱かなかった。
 もしも女の子だったら?
 もしも体の弱い子だったら?
 もしも──流れてしまったら?
 彼の期待に副えなかったらと思うと、震えがするほどに恐ろしくなってしまう。結局、受胎の診断を受けたその日、私はルートヴィッヒ様にそのことを伝えることができなかった。
 かといって、彼が私を蔑ろにするから、ということではない。バイルシュミット家の広いお屋敷には、彼の希望もあって必要最低限の使用人しか置いていない。それゆえ、夫婦の食事は私が作るし、片付けはいつだって彼も率先して手伝ってくださる。嫁いですぐの頃も、そうして今も、異国から嫁いできた私を気遣ってもくださる。
 ルートヴィッヒ様は冷血なお方では勿論ないのだけれど、とにかく、あまり多くを語らない人だから、何を考えているのかが分からなかった。
 夫婦生活も、ある。
 私は彼以外に経験がないから、他がどうなのかは分からないが、特に無体をしいられるわけでもなく、初めての時などは始終気遣いがあったことも懐かしい。
 そう考えると、きっと夫婦仲は悪くないし、初子を授かったことを彼が疎んじるはずもないと思えてくる。けれども、もしも、打ち明けたときに彼の眉根が寄せられたり──不機嫌層な表情をされたり、もしくは拒絶の言葉を吐かれたら。そんなことを考えてしまって、結局言葉が出なかった。
「今日は…体調がすぐれなくて。申し訳ございません」
「…そうか。なら、ゆっくりと休め」
 営みを拒んだ私に、彼は特に追及することなく、寝室から出て行った。その背中にどんな感情を宿しているのかも、私にはわからない。ただ、いつもと同じように絞められたはずのドアの音がやけに大きく響いたし、失望させてしまったかと考えるとじくじくと膿んだように胸が痛んだ。
 そうやって一人寝が数回続くと、彼は私を求めてこなくなった。そうして明けた翌日の朝食の席では、重々しい空気に押しつぶされそうだった。自分の勝手であるとは自覚している、けれどもやり場のない思いは鬱積していった。

 懐妊を打ち明けることが出来ずに更に数日が経ったある日、エリザが我が屋敷を訪うことになった。
 数少ないこちらでの友人、エリザベータ・ヘーデルヴァーリはルートヴィッヒ様の昔馴染みでもあり、異国から嫁いできた私に対しとても優しくしてくれた。彼女の朗らかな人柄と、年齢が近いこともあり、エリザとはすぐに打ち解けることができたのだ。
 嫁いだ当初こそ何かと相談に乗ってもらっていたが、最近はめっきり会うこともなくなった。代替わりして、新たにヘーデルヴァーリ家の女当主を務める彼女は、何かと多忙な身だったからだ。
 午前中、いつも以上に気合を入れて掃除をしてしまって、午後は彼女の好きな花を花瓶に飾り、お茶の準備をして待つことにした。エリザの来訪を知らされると、私の心は常になく弾んだ。
「エリザ、お久しぶりです。お元気だった?」
「久しぶり、ええ、私は元気よ。は…少しやつれたかしら?」
 ルートヴィッヒったら、無理させてないでしょうねとエリザが悪戯っぽく笑う。
 何の含みもない軽口だと分かっているのに、胸が軋んだ。しかし、久方ぶりに会う友人に心配はかけられない。無理矢理笑みを作って、お茶を濁した。
「それより、入って。エリザから連絡があってから、わたくし、もうずっと嬉しくて。お時間は大丈夫なんでしょう?」
「まあ、嬉しいこと。ええ、今日のために仕事は前倒しにしてこなしてきたから、任せて。 そう、面白い話があるのよ、」
 部屋に招いてお茶を入れると、女同士ふたりの会話は弾みに弾んだ。
 エリザの話はとても面白くて、私はいつも興味深く聞くことができた。家庭しか世界のない私と違って、エリザは自らの手腕で一族を切り盛りし、社交界にも顔が広い。美しく、利発で、芯が強くて、でも気立てが優しい。本当に誇らしいばかりの友人だ。──ルートヴィッヒ様は、そんなエリザと私を引き合わせてくださった。幼い頃からの昔馴染みと聞くが、彼は、エリザのことを…。そんな途方もないことを考えると、胸が苦しくなった。
 でも、エリザなら仕方がない。だって彼女はこんなに素敵で、こんなに魅力的なんだもの。何もできない私とは違う。嫉妬することさえ許されない。
 嫉妬なんて、出来るはずもない。こんなに素敵なエリザと友人になれて、それだけでも幸せなんだから。
「…、もしかして本当に具合が悪いんじゃない?会った時から思っていたんだけれど、やっぱり、顔色が悪いわ」
「そんなこと…。」
「なにか、私に隠してることがあるんじゃない?」
 エリザはいつになく強い調子で、だけれど静かな声で問いただした。翡翠の瞳にまっすぐ見つめられると、どうしようもなく逃げられないと感じてしまう。美しいのにどこか恐ろしいほど強い眼差しと、私は真っ向から対峙することができない。
「…隠していることなんて」
「本当に?私の目をみて答えて、
 そのように言われると、私は見苦しく言い逃れすることさえできなくなる。息苦しさを感じながら、私は不安のすべてを打ち明けた。ルートヴィッヒ様のお心が分からないということ。ルートヴィッヒ様とエリザの関係が気になっていたということ。そうして…懐妊のこと。
 エリザは最初の方こそ神妙そうな顔つきで聞いていたが、私が子を宿したことを知ると、一瞬目を見開いて、それから椅子を蹴飛ばすほどの勢いで立ち上がって私のことを抱き締めた。
「おめでとう!本当におめでとう!!あなたこれから母になるのよ…本当におめでたい、嬉しいわ!」
「あ…ありがとう」
「どうしましょ、…私、本当に嬉しくって」
 エリザは私の髪に頬ずりして、涙ぐんで喜んでくれた。本当に、本当に得難い友人だと私はこの時つくづく痛感した。こんなにもかけがえのない友を、私は疑ってしまっていたのだ。同時にそれを実感すると、ますます胸が苦しくもなった。
 かすかに胸を押さえた私に、エリザは不思議そうに名前を呼んだ。そうして哀しそうに眉根をひそめる。
「でも…あなたはとても悲しそうな顔だわ。なにか…あるの?」
 エリザを悲しませてしまったことに罪悪感を感じ、そしてなんと答えたものかと口ごもっていると、彼女はぎょっとした顔つきになった。
「まさか…ルートヴィッヒが何か言ったの?」
「いいえ!違うの、そうではないの…。ルートヴィッヒ様には、…まだ」
「まだ…? まさか、まだ言ってないの?」
 彼女に失望されるのは怖かったが、事実はそうである。信じられない、といった顔つきのエリザに肯定を示してみせると、途端に彼女の顔色は曇った。
「それ…私が先に聞いてしまってもよかったの? なんだか、彼に申し訳ないわ」
「…でも、…こわくて」
「こわい?」
「もしも、…迷惑そうな顔をされたら、って思ったら、こわくて…言えないの。夫婦なんだから、そんなはずはない、って分かってるんだけれど…わたくしには、ルートヴィッヒ様のお考えが、分からない。もしも、生まれてきた子供が女の子だったら? もしも、生まれてきた子供が育たなかったら? もしも、生まれる前に──」
「駄目!」
 ぴしゃりとした声音で叱りつけられ、肩がびくりと跳ね上がった。エリザはとても悲しそうな、それでいて憤りを隠せないといった顔で、私の手を握りしめた。
、そんなことを言っては駄目。生まれ出づる命は、すべてが祝福されるものよ。もしも、なんて考えないで」
「…ごめ、んなさい」
「それはお腹の赤ちゃんに言って。あなたがそんな風でどうするの」
 私の身に宿った私の子を、そんな風に言ってしまったのだ。全てに申し訳が立たなくて、自分が不甲斐なくて、恥ずかしくて、平常心ではいられなくなる。落涙する私を、エリザは優しく抱きしめてくれた。彼女の豊かな胸に抱かれて、ゆったりとした鼓動を聞いていると、私の心はやがて落ち着きを取り戻していった。名前を呼ぶ彼女の声が、身体越しに響いて心地よい。私は目を細めながら頷いた。
「あなた、…そんな不安を抱えていたのね。うまくいっているのかと思ってたわ。 ──ルートヴィッヒも、前より表情が柔らかくなったから」
「…そう、なの?」
「ええ。と結婚する前は、今よりももっと仏頂面だったのよ。 でも、…仕方ないわね。幼くして両親と死に別れて、父親違いの兄とふたりだけで生きてきたんだもの。私も若くして当主の座についたけれど、ルートヴィッヒはもっと幼い頃に家督を継いだのだから」
「苦労なさったんだわ」
「だからって、妻を不安にさせていいわけでもないけれどね」
 エリザは少しばかり意地悪な笑みを向けた。
「いいえ…わたくしが不甲斐ないから」
「どういうところが? 私の知る限りは、家事をきちんとこなして、社交界の付き合いにもちゃんと顔を出して。それに跡取りとなるべき子も宿して、おまけに、夫の友人ともこうやって懇意に出来てる。それに、あんな堅物に不平不満ひとつこぼすことなく慎ましくついて行ってるんだもの。とってもよくできた妻だと思うわ。私には無理よ」
「そんなこと…わたくしには、エリザのように一族を切り盛りすることは出来ないわ。私なんて、全然」
「私の大事な親友を、そんな風に言わないで頂戴」
 そう言ってエリザは私の額を人差し指でトンと押した。微かに唇をとがらせて、さも不満だと言わんばかりに。
 どうして彼女はこんなにも優しいのだろう。本当に彼女の優しさや強さが心強くて、それ以上に自分の未熟さが浮き彫りになって恥ずかしい。
 ごめんなさい、とただただ詫びるばかりの私に、エリザはいいえ、と優しい声をだして聞かせた。
「でも、こればかりは…──私が励ましたからって、どうにもならないわね。私はまだ一人身だし、夫婦のことはまださっぱりよ」
「エリザは、誰と結婚してもきっといい妻で、いい母になれるわ」
「ありがとう、でもそれはあなただってそうよ」
 私が言い返すよりも先に、エリザは腕を回して私のことを思いっきり抱き締めた。肩越しに、そんな顔しないで、と懇願するように彼女は言う。
、もっと自分に自信を持って。あなたはルートヴィッヒ・バイルシュミットの妻なのよ。子供だっているんだから」
「…そう、出来ればいいんだけれど」
 弱気な言葉しか返せない私に、エリザは眉を下げてみせた。
「とりあえず、これだけは保障するわよ。その一、ルートヴィッヒは色々考えてるけれど、あなたのことは大事に思ってるわ。じゃなきゃ私に『妻の助けになってやってくれ』なんて頭を下げるはずがないもの。その二、私とルートヴィッヒは全く、どこまでも、単なる、幼馴染。付き合いが古いってだけで、そういう対象に見たことなんてこれぽっちもないわ。私の好きなタイプとは真逆だし、彼だって気の強い女は好みじゃないみたい。その三、これは大事よ、良く聞いて頂戴」
 エリザは私の頬を両手で包み込んで、まっすぐに視線を合わせた。その双眸はどこまでも真摯で、限りない誠意であふれているように思える。
 目まぐるしいほどの情報に、目を白黒させる私に構いなく、エリザは続けた。
「さっきも話したけど、ルートヴィッヒは幼い頃に両親をなくして、ギルとずっと二人きりよ。だからきっと、彼は誰よりも家族を…血のつながった自分の子供を、欲しているはずなの。だから怖がらないで、彼は絶対、絶対に喜ぶはずだから」
「エリザ…」
 おまじない、そう言ってエリザは私の頬にひとつキスをしていった。

 彼女の言うことは全くもって理にかなっている。私は彼女が帰った後の室内で、ぼんやりと考え込んでいた。
 これから私は母になるのだ。だから、これしきの事で動揺していてはいけない。──エリザの言う通りで、まずはじめに、夫であるルートヴィッヒ様に打ち明けねばならないことだった。誰がなんと言おうと、この腹の中にいるのは彼の子供。バイルシュミット家の跡取りとなりうる初子なのだ。何を憚ることがあるのだろう。
 エリザのおまじないが聞いたのか、私はそれまでになく強い気持ちでルートヴィッヒ様のお帰りを待つことができた。
 夫の帰宅を告げられて、玄関ホールまで下りていく。急く気持ちゆえに駆け出しそうになったが、身重であることを考えて慌てて歩調を緩める。もう自分一人の身体ではないのだから。
「おかえりなさいませ、ルートヴィッヒ様」
 声をかけると、彼はちらと私を一瞥して、ただいま帰ったという旨を告げた。コートを預かる。──言葉が、出てこない。
 けれど引き留めるように彼の前に出てしまって、そうすると、青い瞳が私を見下ろした。
「どうかしたのか」
「…えっ…。あの、今日はエリザベータとお茶をいたしまして。旦那様によろしく伝えるようにと」
「そうか。彼女は元気そうだったか」
「はい、とても。変わりないようでした」
「それはよかった。 …話はそれだけか?」
「あっ…は、はい。お引止めして申し訳ありませんでした」
「いや」
 何故私は、こうも竦んでしまうのだろう。言葉が出てこないのだろう。当たり障りのない会話をして、出来そこなった笑みを貼りつけて…なんと愚かなんだろう。書斎へと向かう彼の背中を見送りながら、自分への失望で一杯になった。
 しかし、嘆いていたって仕方がない。いつかは判明することなのだ。早く言わなければならない。
 ──彼は誰よりも家族を…血のつながった自分の子供を、欲しているはずなの
 エリザの言葉がよみがえる。次こそは、という期待を胸に私は夕食の席にルートヴィッヒ様を呼んで、ようやっと打ち明けることができた。

「…そうか」
 彼の反応は、とても淡泊なものだった。嬉しいとも、かといって迷惑とも表すこともない。淡々と事実を受け入れて、淡々と夕食をとると、淡々とその場を離れていった。
 いつもは食器を下げるのを手伝ってくださるが、それさえもないところを見ると、もしかしたら──迷惑な事だったのだろうか。でも、私がバイルシュミット家の、彼の妻であるならば、私の産む子は将来的にはこの家の家督を継ぐべき存在。そんなに蔑ろに扱われるべきものなのだろうか。
 それとも本当に、私は彼から愛されていないのか。
 そう思った瞬間、理性の箍が外れてしまったように、一気に涙が込み上げて流れ落ちていった。流れるというよりもっと激しく、ぼたぼたと落ちていっては床に染みを作る。──もはや、愛されていないことには失望しない。それよりも、望まれない我が子が不憫で、悲しくて、たまらなかった。
 臨月に入る前に実家に帰ろうかとまで考えたとき、手元が疎かになっていたのか、食器が床に落ちて激しい音を立てた。ハッとすると同時に、青ざめてしまう。それは、結婚祝いにとルートヴィッヒ様が懇意にしている方から頂いた、大事な大事な食器だったからだ。
 なんと愚図なんだろう、なんと不甲斐ないんだろう。だからこうなんだ。そう思うと、いよいよ胸がかき混ぜられるようで、激しく痛んでたまらなかった。震えがするほどの嗚咽が襲ってきて、子供のように泣き出してしまいそうだった。
 そうしたとき、どたどたと常にない乱暴な足音が聞こえて、これまた乱暴にドアが開かれた。咄嗟にそちらを見ると、ルートヴィッヒ様が血相を変えた顔で部屋に飛び込んできたのが見えた。鬼気迫る表情で距離を詰める彼に、思わず身を竦めてしまう。叱責されると思ったのだ。
 ルートヴィッヒ様は割れた食器を瞳に映すと、座り込んだ私の傍にしゃがみ込んで視線の高さを合わせた。
、…怪我はないか?!」
「あっ…ご、ごめんなさい…ごめんなさい。食器を…せっかく、カークランド様から頂いた食器を割ってしまって…」
「器などどうでもいい! 君は下がっていろ、あとは俺が片づける」
 ルートヴィッヒ様はそう声をかけるや、テキパキと破片を拾ってあっという間に片づけてしまった。茫然として理解の追いつかない私は、ただ、立ち上がって右往左往としているしかない。そのまま食器をすべて運んでしまった彼は、所在無くする私にかすかに眉をしかめた。
「座っていろと言ったはずだが」
 かすかにいら立ちを含んだ声に、否応なく体がびくりと震えてしまう。これ以上の怒りを買うのが恐ろしくて、私は目の前にあった椅子に座るしかなかった。これ以上嫌われたら、私はどうしたらいいのだろう。これ以上のことなど、もしかしたらないのかもしれないが。
 俯くと、衝撃で止まっていた涙がまたジワジワと溢れてきた。静かに涙を流す私の耳に、ぐしゃっという柔らかいものを潰すような音が届いた。かすかに頭を上げると、彼が整えられた頭髪を乱して、頭を抱えているのが目に入る。
 違うんだ、と彼は呟いた。あまりにも悄然としていて、それはどう聞いても怒っている人の声には思えない。そうするとまた、私は分からなくなる。心を決めかねて沈黙を貫いていると、ややあってからルートヴィッヒ様は呟くように告げた。
「…すまない。俺はどうにも物言いがきついようで…」
「い、いいえ…そんな。わたくしが愚図なので」
「そんなことはない!」
 ルートヴィッヒ様のバリトンの声が、びりびりと空気を震わせる。常には聞かない大きな声に、また私の身体はびくりと震えてしまった。身をすくませる私に、すまないとルートヴィッヒ様は重ねて詫びる。
「い…いいえ」
「そんなことは…ないんだ。君はいつもよくやってくれている。言葉の足りない俺の意を汲んで、…俺はいつも助けられている」
 初めてかけられたそんな言葉に、私の心はもうどうやっても制御不能に陥ってしまった。様々な感情がないまぜになって、爆発して、やり場なく、とめどなく、涙と一緒に溢れていった。

 まるで子供のように声を上げて泣くを前に、俺はかつてないほどの焦燥にかられた。どうしたらいいのか分からなくて、オロオロと狼狽えるばかりで、まことにみっともない醜態をさらしたことだ。
「なっ…!なにか悪いことを言ったか?! それともどこか具合でも…」
 身重であるという彼女の身に何かあれば一大事だ。今すぐにでも医者を呼びに行けるように身構えたところ、はただただ、かぶりを振るばかりである。
「いいえ…いいえ。う、…嬉しくて、…っ」
 嬉しい。こんなにも、年端もいかない子供みたいにしゃくりあげて、泣きじゃくっている彼女が、嬉しいとは、一体。感情をはかりかねて硬直していると、訥々と、彼女は嗚咽交じりに語って聞かせた。
「遠い異国から、…嫁いで来て。お互い婚礼の日に、はじめて顔を合わせて…。ルートヴィッヒ様のことを、何も知らず妻となり、…あなたがどう思っているのかわからなくて、…いつも不安でした。子が出来たと知った時も…あなたがどう思うのかが分からなくて、打ち明けることをためらいました。私は本当に、…不出来な嫁なのです…」
 初めて明かされた彼女の内情は、驚くばかりで、そして、どこまでも胸が締め付けられるばかりのものだった。
 確かに、極東の果てから遥々嫁いで来て、右も左も分からない異国の地に、親兄弟のもとを離れて暮らすというのは不安だろう。そういった中で、彼女の頼ることができるのは夫である俺しかいない。それなのに、俺は──よく言われるが──何を考えているのかが読めず、顔色を伺うことしかできない。俺が、…たとえばフェリシアーノのように、毎日彼女への愛を伝え、慈しむように愛を注いでいればどうであっただろう。到底俺にそんなことは出来ないと、半ば突き放すようにして二年間暮らした結果がこれだ。
 不甲斐ないのも、不出来なのも、彼女ではなく俺のことだ。
 教会であの日、俺は誓ったはずだ。生涯、どんなことがあっても、妻となるを愛し、守り抜くと。それなのに実情は、不安にさせて、怖がらせてばかりだった。
 華奢な身体を殊更小さくして、泣きじゃくる彼女の姿がたまらなかった。思わず掻き抱いて──しかし、身重であることを思い出し、ゆるゆると身体から力を抜く。どうしたら傷つけずに抱き締めることができるのだろうか。無骨な俺の腕では簡単に壊してしまえそうなほど、彼女はか弱くか細い。
「そう思わせてしまったのは、俺の不手際だ。俺は元々、感情を表現するのが得意ではない。不安にさせてしまって…まことに、申し訳なかった」
 言い訳に過ぎないことは分かっている。けれどもそう言わずにはおれなかった。
 腕の中で、彼女はふっとかすかに笑った。思ってもみない反応にぎょっとしてしまう。固まった俺に、彼女はいいえ、とゆるくかぶりをふってみせた。
「旦那様も、大変だったのでしょう?幼くして家督を継いで、…きっと並々ならぬ苦労があったことと思います」
「なぜ、それを」
「エリザベータから聞きました。 私は、小さくなって、臆病になって、自分の気持ちを伝えることが出来ませんでした。そうして、あなたのことを知ろうともしなかった」
「それは…仕方がない。俺のような厳つい男を相手に、臆病になるなというほうが間違っている」
 言い訳がましくつぶやいた俺には鼻声でクスクスと笑った。
 こんな笑顔は──初めて見たと思う。なんとも可憐で、あどけない笑い方だ。いつも見る貞淑な妻という印象はそこにない。もしかしたらこれが、彼女の本質なのかもしれないと思うと、途方もないいとしさを感じた。
「いいえ、それでも…私は知ろうとしなければいけませんでしたし、思いを伝えることから逃げてもいけませんでした。これから私は母として、この子を、」
 は己の腹をそっと撫でた。いとおしそうに。それがまた、たまらないほどの愛しさを倍増させる。
「──守っていかなければなりません。…ですので、一つだけ、言わせていただきたいことがあります」
 そう言って彼女はまっすぐに俺の目を見つめた。澄んだ眼差しには一点の穢れも、そうして何の気おくれもない。初めて向けられた強い眼差しに、俺は内心たじろいでしまう。しかし、どんなことを告げられようと俺は受け入れるしかない。それが夫としての責務だ。
「言ってくれ」
「それでは。 …子が宿って、旦那様はどう思っていらっしゃるのか──あなたのお気持ちが知りたいのです。もしも…もしも、迷惑だと仰るのなら、」
「迷惑などと、俺が言うと…君は思うのか?」
 思わぬ言葉に唇がわなないた。震えそうになったのは、苦しいほどに──胸が痛んだからだ。呼吸も蝕まれるほどに、心臓がズキズキと痛んでたまらない。思わず胸を押さえてやり場のない苦しみを紛らわせた。
 しかし、それも道理かもしれない。彼女は俺の気持ちが分からなくて不安だと言った。俺のことを何も知らないから分からないのだと。…何も語らなかったのは俺だ。伝えようとしなかったのも、俺だ。俺が悲しむべきは、俺自身のことにではなく、彼女にそんな思いをさせてしまったことに対してであるべきだ。
「…だから、君は常に不安そうだったんだな。本当に俺は…不甲斐ない」
 うなだれるようにその場に膝をつくと、ややあってから彼女の手が俺の頭を撫でた。
 顔を上げると、泣きそうな笑顔でが微笑んでいる。なんと美しいのだろう、と俺は場違いな事を考えてしまう。悲哀に満ちている、なのに、それと同じだけ、いや、それ以上に愛おしさと幸せであふれかえって、まるで慈母のように優しい。優しく、それでいて強く、世界中から祝福されたみたいな、そんな笑顔だ。
 彼女はただただ、かぶりを振った。──俺は、許されたのだ。
 その微笑みに、遠い昔に失った母を見たようで、俺はの腰に腕を回した。彼女も俺の頭をやんわりと抱き締め返す。なんと、幸福な事か。不覚にも目頭が熱くなって、思わず彼女の腹に顔をうずめた。
「…ここに、俺の子が」
「…はい」
「…俄かには信じられないが、こうやって、俺も君も、生まれてきたんだな」
「…はい」
「…産んでくれるか」
「…産まないと、私が言うとお思いですか?」
 最初の言葉だけ聞いてぎょっとして顔を上げると、彼女はかすかに笑みを向けた。まるで悪戯が成功した子供のようだ。
「先程のお返しです」
「あ…そ、そうか」
 まるで人が代わったみたいな軽妙な返しに、俺はすっかりとやり込められてしまった。しかしこのままでは立つ瀬がない。咳払いをして場を引き締めると、彼女も真面目そうな顔になって俺を見返してきた。
 俺はの手を取って、両手で包み込んだ。小さくて、華奢で、柔らかで優しい、俺の妻の手が、いとおしい。
「俺の子を、産んでくれ」
「勿論です」
 は涙をこぼしながら、微笑みながらそう返した。そうしたところで俺の理性はたやすく吹っ飛んでしまう。
「えっ…?ルートヴィッヒ様?!」
 驚く彼女の声を頭上に聞きながら、俺はのひざ裏に手をまわして抱き上げた。子供みたいな抱き方とあまりの唐突さに、彼女は抗議の声を上げたが、それも長くは続かなかった。
「街まで走って、自慢して回りたい気分だな」
「だ、旦那様?!」
「俺は世界一の幸せ者だ。 …本当に、ありがとう」
 これほど喜ばしいことが、この地上に一体いくつあるのだろう。考えると同時に、懐妊でこれほど嬉しいのならば、無事に出産できた暁にはどうなってしまうのかと、本格的に悩ましくも思ったものだ。
 まことに贅沢な悩みである。